2011/09/05

ハリケーン・アイリーンの被害から考える、ボランティアの意味


2週間ほど休暇を取り、ニューヨーク北部の自然農の農場に研修に行ってきました。

農業の話などはいずれ書こうと思いますが、滞在中に起こったハリケーン・アイリーンとその影響に関して色々と思うところがありましたので、まずはそちらについて記載したいと思います。

研修させて頂いた農場周辺地域(キャッツキル・エリアのグリーン・カウンティ)は、ニューヨーク州内で最もひどい被害を受けました。
沿岸部にあるニューヨーク市内は被害が大きくなるだろうと予想されていたので、自宅にいるよりも安全だと思っていましたが、実際は逆でした。

私が滞在していた場所では、橋や道路が決壊し、家の地下が水没し、ガレージや玄関前のポーチが倒壊し、停電と断水が3日間続きました。


隣町のウィンダムというところは更に被害が酷く、町全体が水没しました。
翌々日、水が引いて通行止めが解除された後、その町に瓦礫の片付けを手伝いに行きましたが、家は崩れ、道路は陥没し、電柱や街灯は傾き、車は潰れ、アイリーンは街全体に大きな爪あとを残していました。


しかし、私の心を打ったのは、被害の大きさだけでなく、人々が助け合う姿でした。
町に入るとすぐに、多くの人が物資の配給をしている姿が見られました。
私たちが手伝いに行った店では、子供からお年寄りまでさまざまな年代の方が泥まみれになった商品を片付けていました。
遠くから駆けつけた方もいらっしゃいましたが、多くが同じ町内の被害が少なかった方や近隣地域から来た方でした。
みなさん、ご自身の家でも電気と水が復旧していない状態だったと思いますが、それでも、自分よりも困っている人がいるのだから助けるのが当たり前という感じで参加し、現場では誰から支持を受けるともなく、周りの様子を窺いながら自らすべきことを探し、笑顔で汗を流して働いていました。
小さなお子さん連れの家族もいましたが、子供たちは汚泥の匂いや飛び回るハエに文句を言うこともなく、一生懸命瓦礫や汚れたものを片付けていました。
ある程度片付けが終わると、子供同士で集まり、隣の空き地で野球を始めました。もちろん、そのことに文句を言う人など誰もいませんでした。
店主は、悲観的になることもなく、手伝ってくれる人たちに必要以上に賛辞を述べることもなく、現状を受け入れ、皆で助けあうことの大切さと有難さを淡々と語っていました。
凄惨な状況とは裏腹に、誰もがすがすがしくさやわかな表情でした。

実は、今年3月に日本で震災が起こった直後、登録しているメーリングリストから、ボランティア活動に関する意見を記載したメールやブログが多々送られてきたのですが、それらを読んで以来、ボランティアの意義について色々と考えていました。
それらは主に、東日本大震災の参考のためにと、阪神大震災の被災者やその関係者が書かれたものでした。
内容は、
”当時ボランティアの中には観光気分で自分探しのために来る自己陶酔型の人がいた”
”ボランティア同士で楽しそうに親睦を深め、汚れ仕事は行わず、逆に凄惨な現場を見て嘔吐し現場を汚す者すらいた”
”彼らに同情されることは被災者として耐え難く、今でも嫌な思い出として残っている”
”素人はボランティアに手を出さずプロに任せるべきだ”
”やらぬ善よりやる偽善”
”ボランティアは喜びも満足も充実感も得るべきではない”
というようなものでした。

私は、こうしたブログやメールが、ボランティアをしたい方の気持ちを思いとどまらせてしまうのではないかと心配になりました。
もちろん、被災者の方の気持ちは被災者にしかわかりませんし、当時はボランティア元年と呼ばれていた通り、現在のように多くのNPOやボランティアを統括する組織があるわけではありませんでしたから、きちんと統制が取れていなかったのは確かだと思います。
しかし、ボランティアは被災者のためだけに活動するのではなく、自身の成長のために行うものでもあるし、そこから喜びや満足や充実感を得るべきであり、プロでなくても誰もが積極的に行うべきものだと私は思っています。
そして、偽善という言葉は、”良い行いをするふりをして騙そう”とうようなよほどの場合を除き、使うべきではないと思っています。

アメリカでは、”ボランティア”という言葉はさまざまな状況で使われます。
グループの中で何らかの役割を担う人を決める際、”Any Volunteer?(誰かやってくれる人いますか)”と言います。
辞書では、Volunteerという言葉は”自発的に何かを引き受ける人””無償で進んでサービスを提供する人”とされています。
被災地でのボランティアにおいても、被災者がボランティアにプロのように働くことを求めることはありません。
子供やお年寄りでは力不足だから被災地のボランティアに参加すべきではないなどという人はいませんし、作業の合間に休んでいても文句をいう人はいません。
各人が自発的に誰かの手助けをしている、ただそれだけです。

日本では、ボランティアを特殊な行動のように捉える傾向にあるように思いますが、本来もっと簡単に考えて良いものだと思います。
もちろん、特殊な救助技術が必要な状況に、技術のない人が参加すべきではないですが、誰かを助けを必要としている人がいて自分に助けるための時間があるのならば、もっと気軽にボランティアをすれば良いと思います。
そして、そこから多いに学びを得、喜びを得るべきだと思います。

実は、私自身、阪神大震災の際、”ボランティア”をした経験があります。
当時はまだ学生だったこともあり、ボランティア活動の経験などありませんでしたが、凄惨な状況をテレビや新聞で見ているうちにここでのんびりしている場合じゃない、何かしなくてはと、新聞のボランティア募集の告知に掲載されていた番号に電話をかけ、翌日から3週間ほど芦屋で水の配給やお年寄りのお宅訪問などを中心に活動しました。
電話をかけた先がどのような組織だったかは覚えていないのですが、大阪に事務所があり、尋ねると、行くべき避難所の場所を教えてくれました。
避難所には、ボランティアをまとめるリーダー的な方はいらしたものの、ご自身も被災者であり、ボランティアに来た人は指示を待つのではなく自らがやるべきことを見つけて動くようにと仰っていました。
とはいえ、勝手に動けば逆に迷惑になることもあるので、話し合いながら、なんとか僅かながらの情報をかき集め、チームを組んでできることをしていました。
日が経つにつれて徐々に体制が整ってきたものの、最初はボランティアをする側も受け入れる側もほとんど経験がないために、誰もがどうして良いのか分からない状況でした。
先のブログやメールで指摘されていたように、日中の作業が終わった後に夜ボランティア同士でキャンプファイヤーをする人たちも確かにいましたし、その人たちを怒鳴りつける被災者もいました。
しかし、多くのボランティアは困っている人を助けたいという思いで真摯に活動していましたし、キャンプファイヤーをした人も、被災地では皆が精神的に極限状態でしたからそうでもしないとやっていられない状況だったのかもしれません。
辛い思いをされている被災者を前に行うべきことではなかったのかもしれませんが、一時期の一部の方の行動を理由に一切のボランティアを否定すべきでもないし、偽善と片付けるべきでもないのではないかと、私は思います。

現在は、ボランティアを統括するNPOがたくさんあります。
そして、管理する人さえいれば、被災地では人手が必要なのですから、プロではない一般の方の無償ボランティアは必ず必要だと思います。
実際、東日本の震災では、募集を早期で打ち切るほど多くの方がボランティア活動をされています。
遠くニューヨークからも、多くの日本人が募金活動などを行っています。
こうした状況は、阪神大震災があったからこそ成り立っているのだと思います。

私自身も、阪神での経験の後しばらく、ボランティアは経験のない人が簡単に行うべきではないという意識を強く持っていました。
しかし、アメリカに来てから、あまりにボランティアが当たり前に行われており、助ける方も助けられる方も全く気負いがないので、ボランティアに対する意識がすっかり変わってしまいました。
「ボランティア」と堅苦しく言う必要はなく、困っている人がいる、時間がある、じゃあ助けに行こう、そんな感覚でいいのだと思っています。
ウィンダムでの経験から、その意識がより強くなりました。

人は、助け、助けられて、成長しながら生きていくものだと思います。
日々の仕事や学業など日常生活の影に隠れてしまいがちですが、人生において最も大事なのは、人との関わりであり、そこから学び成長することなのではないかと思います。
より多くの人が、気軽な気持ちでたくさんの人助けをして、たくさんの学びを得て、社会が豊かになっていけばと思います。

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